古典を外国語で読む(1)

HiroshiMatsushima2008-02-13



日本人で日本の古典作品を外国語で読む人というのは、そうそういないと思う。そりゃそうでしょうよ。まず日本人で古典作品に興味があるなんていうと、その確率たるやNHK杯囲碁トーナメントとの視聴率と同じくらいしかないだろうし、さらにその中で、外国語でわざわざ読もうなんていう人間のいる確率となったら、それこそ1か月以内に超
新星を発見できる確率くらいになるかもしれない。



はい、その稀有な確率の持ち主が私です。




「1年で100冊のスペイン語の本を読む」(これから、これは100冊スペイン本と約します)で今回読み終えたのは、「Diarios de damas de la corte Heian(=平安宮廷女性の日記集)」という本です。

和泉式部日記、紫式部日記更級日記スペイン語で読めるというわけです。


それでは、数回に分けてこの本の感想を書きます。


最初にいっておきますけど、これはすごくおもしろい体験でした。

古典をいきなり原文で読み下せる人はあんまりいないから、こういう古典を読むときは現代語に訳したものを読むのが一般的な日本人の姿だと思うのですが、現代日本語に訳すときにこれらの作品は必ず「女ことば」を使うことになります。

これが案外、本質的なものを見えなくしているのではないかなと感じました。
それだけ西洋言語で訳されたものは侠雑物が少なくなる分だけ、作者の概念がダイレクトに伝わってくるような気がします。

それはまさにひとつの物体を違った方向から光をあてるとまるで違った形に見えるのと同じような意味で、古典を再発見するいい機会になったと思っています。



和泉式部日記:

この作品をWikipediaで見てみると、作者和泉式部の実体験に基づいていて書かれたものだとのことです。
しかし、スペイン語ではあくまでも主人公はUna dama (ある貴婦人)として三人称で書かれています。そのため、日記というよりも物語という印象を与えます。ある貴婦人が皇太子と恋愛をし、最終的に結ばれるというストーリーです。

物語として読むと、主役の人物像の描きこみが浅いのが気になりますが、もしこれが当事者の日記だとするとそういう点は納得します。だれも自分の日記で自分の描写をする人はいませんからね。

さて、この恋物語、現代の我々からみると、奥ゆかしいというのか、歯がゆいというのか、とにかく当人同士が会って話している時間より、その人を思って一人で月を眺めている時間の方が圧倒的に長いです。

「恋に恋している状態」に近いのでしょうかね。このころの恋愛というのは・・・。もっとも「その人を思って月を眺めている」という奇麗どころだけを文字にしただけで、実際のところはどうだったかわかりませんけど。


ちょっと話が下にいってしまいました。


ところでこの日記は、和歌のやり取りが軸となって物語が進んでいきます。スペイン語ではPoema(詩)という言葉で紹介されています。

この詩がなかなか上手に翻訳されていると思います。(オリジナルが手元にないので断言はできませんが)

ところでそのスペイン語のフレーズを読んで、それを自分でもう一度日本語に訳す、つまり和歌にしてみようと思うとなかなかできません。
よく31文字の中にこれだけの概念(スペイン語にすると約25単語、50音節分に相当します。)をつめこむことができたなと感心してしまいました。

現代日本語は西洋言語とくらべて圧縮度が低いのですが、平安時代の「和歌」には言葉の圧縮という技術が凝縮されていたことがわかります。興味深いですね。

手元にオリジナルがないのが残念です。日本に行った時に購入して読み比べてみます。

次回は「紫式部日記」です。